わたしたちにとってよい

2024年2月4日の礼拝より
「わたしたちにとってよい」 永松 博
ヨハネによる福音書10章7~18節

わたしは「”い”は人それぞれ」という口癖があります。「美味しい」、「凄い」、「よ
い」のように語尾に”い”がつく形容詞で表現されるあらゆる物事には、ひとそれぞ
れの価値感覚があるとの思いが口癖となりました。
きょう、ヨハネ福音書においてイエスも「わたしはよい羊飼」(11 節、14 節)と語
っています。果たして、イエスが語る「よい」は、わたしたちにとっても「よい」の
かどうなのか、聖書の言葉を頼りに、考える機会となればと思います。
イエスが「わたしはよい羊飼」というとき、同時に語るのは次の二点です。「羊の
ために命を捨てる」(11 節、15 節)、「羊を知」っている(14 節)。
羊飼いの役目は、群れを毎朝牧草地に連れ出して食べさせ、水を与え、かつ夕方に
は囲いに連れ帰ること、および昼夜を分かたず、野獣や盗賊から群れを守ることです。
このように羊飼いが羊にとって不可欠な存在であるならば、「羊のために命を捨て」、
いなくなってしまう羊飼いイエスは果たしてよい羊飼と言えるのだろうかと疑問が
浮かびます。しかし、逆に考えてはどうでしょう。「わたしのために命を捨てよ」と
語る羊飼いは、果たしてよい羊飼いだと言えるでしょうか。この社会のあらゆる場面
に潜み、生きづらさのもとでもある「わたしのために命を捨てよ」との支配構造は、
戦争において顕著となります。戦場に赴くのは、戦争することを決めた支配者ではな
く国民であり、特に犠牲となるのは非戦闘員という意味でくくった女性や子どもだ
からです。対して、羊のために命を捨てるイエスは、「羊に命を得させ、豊かに得さ
せるため」(10 節)にきた羊飼いだと言われています。
次に、よい羊飼としてのイエスは、「わたしの羊を知」(14 節)ると語られていま
す。それは、羊を文字通りの家畜と捉えて、減ったらまた増やすことのできる代替え
可能な存在と考えたり、心にかけない羊飼い(12~13 節)とはちがう。一頭ごとに
名があり(「自分の羊の名をよんで連れ出す」3 節)、唯一無二の存在として心にかけ、
知ろうと関わり、「この囲いにいない他の羊」をも導こうとするのが(16 節)がよい
羊飼イエスであると言うのです。以上の点から、「わたしはよい羊飼」と語るイエス
こそ、わたしたちにとってのよい羊飼であると大宮教会は告白します。そしてよい羊
飼イエスは、こうも言います。「羊はその声を知っている」(4 節)、「わたしの羊はま
た、わたしを知っている」(14 節)と。よい羊飼イエスを知って、このお方のあとに
ついて行ってみませんか。豊かな命がそこにあるとわたしも証言する者です。

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