愛は近きより(Charity begins at home)

2024年7月7日 礼拝より
「愛は近きより(Charity begins at home)」 永松 博
創世記25章19~26節

「愛は近きより(Charity begins at home)」はマザーテレサの言葉です。彼女の話
に感動した日本の学生がインドで活動することを申し出た時、マザーは、わざわざイ
ンドまで来なくても、あなたの周りのカルカッタで愛を実践してほしいとの思いで、
この言葉を語りました。カルカッタという生活の座で愛に生きようと努めるマザー
にとっては、日本人学生の生活の座もまた愛を実践する現場に見えていたのでしょ
う。愛は、最も近き所で、時に痛みを伴いながらも実践されることを待っています。
その意味で、きょうの聖書箇所の「ヤコブ物語」は、わたしたちの最も近き人との
関係性を問うているように思えます。こと旧約聖書は、登場人物の人間臭さをありの
まま語ります。長所も短所も、責任も失敗も複雑に持ちあわせた登場人物たちは、互
いに複雑にもつれあい、それでも何とかして各々の最善の道を見つけようともがく
姿は、まさにわたしたちの姿そのものです。登場人物のうち、パートナーのイサクと
リベカは、お互い最も近しい他者の代表です。両者はどのような関係性だったのでし
ょうか。また、両者と双子との関係性はどうだったのでしょうか。注意深く読むと四
人の複雑な関係性を読み取ることができます。例えば、胎内の双子のことで神に尋ね
たリベカへの主の言葉から見てみます(「23…兄は弟に仕えるであろう」)。これは、
原文では真逆の意味「弟は兄に仕えるようになる」とも同等に意味し得る文章です
(動詞との性数が二名詞とも一致し、「~を」との定目的語を指す前置詞エートが欠
けている場合、SVO 構文の主語と目的語は特定できず、文脈と解釈に委ねられる)。
母リベカは、後に双子の弟「28 ヤコブを愛した」とありますが、この時の神の語り
かけをどのような意味で理解したのでしょうか。またリベカは、このことをパートナ
ーのイサクに伝え、意味について語り合ったのでしょうか。そもそも、子が与えられ
るよう主に祈ったイサクは、なぜリベカが胎内の双子のことで神に尋ねに行ったと
き、リベカと一緒にいなかったのでしょうか。私的な事柄は女性たちの内面に留めら
れていたとの読みは果たして読み込みすぎでしょうか。もっと言えば、25 節で省略
されている主語が区別されているのはなぜでしょうか(「エサウ」と名付けたのは「彼
ら(たぶん両親)」であるのに対し、「ヤコブ」と名付けたのは「彼(たぶんイサク)」)。
近き者同士の関係性のすれ違い、偏った愛、長子のみの特権という風習を越える神の
自由な選びなどが複雑に絡み合い、胎内での押し合いは、兄弟の不和となり、やがて
民族間の争いとなりました。今日の戦争も、足元の関係性と地続きです。最も近き関
係性を見つめ直し、一人だけでなく教会で共にみことばを聴き合い生きましょう。

関連記事

  1. 見えないから見える

  2. 悲しみの地に宿る神

  3. 神が彼らと共にいて

  4. わたしたちの現実のど真中に

  5. 「イースター 励ましはやって来る」

  6. 共に悩み、共に喜ぶ