見られたキリスト

2024年5月26日 礼拝より

「見られたキリスト」 永松 博
コリント人への第一の手紙15章12~22節

先日、ある俳優さんが召された知らせを耳にしました。その方は生前、精力的に終
活をしていらっしゃったそうで、都内にはお墓も建てていたそうです。お墓の正面に
は、直筆で「無」という文字が彫られていたのを写真で見ました。「死んだ人は『無』
なんだから」とのお考えによるものだったとのことです。死はだれにでもおとずれる
ものです。しかし、だれも経験することができないものです。よって、死後の理解は、
ほんとうに多様であって、だれも論証したり、論破することはできません。だからこ
そ、死後の事柄については誰もが、「わたしはどう考えるだろうか」と問われます。
死後について、イエスご自身はどのように考え、何を語ったのでしょうか。イエス
ご自身は、死者の復活を語っています。マルコによる福音書 12 章 26 節で、イエス
ご自身は「死人がよみがえることについては…」と語っている部分があります。そこ
でイエスご自身は、モーセよりも四百年以上も前に死んでしまったイスラエルの父
祖たち(アブラハム、イサク、ヤコブ)は、決して死んでしまったのではなく、復活
して、今よみがえりの命を生きていると考え、語っているように思われます。だから
こそ「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」(マルコ 12:27)とつ
ながるのです。イエスご自身は、死者の復活を旧約聖書から捉えていました。さらに
復活とは手でさわり、目で見ることができるような実体としてというよりもむしろ、
すでにわたしたちのただ中で起こっているものだと捉えていたようです。だからこ
そ、放蕩息子のたとえ(ルカ 15 章)でも、人が神のもとに立ち返ることを「死んで
いたのに生き返」った(15:24,32)と語ることができたのではないでしょうか(参照:
青野太潮『どう読むか、新約聖書』ヨベル 2021)。
さて、きょう開いたコリント人への第一の手紙 15 章 5 節以下では、十字架上で死
なれたキリストの復活に関する告白が引用されています。その中の「現れた」は、原
文では「見られた」との意味です(「見る」(horao)という動詞のアオリスト受動態)。
つまり、復活のキリストは、一人ひとりに見られたのです。一人ひとりが主観的に見
たと告白しているのです。そしてパウロも語ります「20…事実、キリストは眠って
いる者の初穂として、死人の中からよみがえったのである…22…キリストにあって
すべての人が生かされるのである」と。論証や論破ではなく、このわたしも主観的に、
聖霊によって「キリストは死人の中からよみがえった」と語る者です。またキリスト
にあってすべての人が生かされるとわたしは信じて生きています。きょう、一人ひと
りが「どう考え、どう生きていくか」と問われています。信じて生きてみませんか。

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