2024年2月25日の礼拝より
「雷がわたしに落ちるとき」 永松 博
ヨハネによる福音書12章27~36節前半
「光がある間に歩いて、…光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」(ヨハネによる福音書12章35~36節)。この聖書のことばを基にした1冊の短編小説『光あるうちに光の中を歩め』(トルストイ作、米川正夫訳、岩波文庫1990)の冒頭、7頁ほどの短いプロローグを読み、電流が走った。(以下概要)ある富裕な家へ客が集まった時、人生問題に関するまじめな話題となった。一同は、自分や、知り得る限りの人びとの人生について語ったが、誰一人、自分の生活に満足する人を見いだせなかった。また、自分こそキリスト者としてふさわしい生活をしていると考えている者さえ、誰一人いなかった。すべての人は世俗の生活に没頭し、自分自身や、自分の家族のことばかり思いわずらい、隣人のことは言うまでもなく、神のことさえ考えようとしていないと告白した。その時、青年が叫んだ。「さまざまな娯楽や楽しみを考えだしているにもかかわらず、依然として倦怠を感じ、自分たちの生活は当然かくあるべきでなかったという悔いたまま死んでゆく。…わたしはこのような生活はいやです。…わたしは自分の財産を捨て、村へ行って貧しいものといっしょに暮らします。彼らと共に働いて、自分の手で労働することを覚えましょう。もしわたしの教養が貧しい人々に必要なら、わたしはそれを伝えましょう。しかし、それは学校や書物を通してじゃなく、直接かれらと共に兄弟のように暮らしながら、実行するのです」と。一同は、青年の意見にある面で同意しつつも「今ではない」と繰り返していく。最後に、一人の客人が言う「何という不思議なことだ!みんなが口をそろえて、われわれは良くない生活をしている、神のみ旨にかなった生活をするのはいいことだと言いながら、いざ実行しようとなると、誰一人として実行できない。ただそれを談ずるだけならさしつかえないわけなんですね」。いま信じ生きることが問われる。
きょうの聖書箇所も『28…天から声があった」と語る。しかし群衆は「29…『雷が鳴ったのだ』などと言う。雷が自分に対する神の招きとは思わない。けれどもイエスは「30この声があったのは、…あなたがたのためである」言う。いったい今までに何度、雷が鳴ったかと信仰によって振り返る。どれもわたしへの神の語り掛けだった。きょう、雷が「光あるうちに光の中を歩め」と語る神の声だと知った。雷は、分厚い積乱雲が覆う空の下、1 秒間に地球を7周半する速さで光り、鳴る。「~したら」との猶予はない。いまこの瞬間が問われている。いま光の中を歩もう。またきょうこの時から雷は「光あるうちに光りの中を歩め」との主イエスの招きとして響き続ける。