『神』を捨てること

2024年8月25日より
「『神』を捨てること」永松 博
創世記35章1~15節

8 月16日(金)、荒井献さん(94歳)が召されました。牧師家庭で育ち、戦時下の少
年期の体験の後、聖書研究者となり、東京大学教授、恵泉女学園大学長などを歴任さ
れました。また故・荒井英子牧師(79~89年日本基督教団信濃町教会副牧師、89~92
年国立療養所多磨全生園内・秋津教会牧師)のお連れ合いとしても生きられました。
個人的には荒井献さんの著作から学ばせていただいたにすぎない者ですが、先生
はイエスというお方がそうであったように、神によって徹底的に自らを相対化し、
「正解」を押し付けるのではなく相手に問いかけ、主体的な応答を求めていくような
方でした。そして、徹底的に自己相対化によって人を底なしのニヒリズム(虚無主義)
へ沈めてしまうのではなく現実の苛酷さのただ中にある人を根元的に支える『存在
の根拠』としてのイエスを著作『イエスとその時代』(1974)を通して教えてください
ました。イエスは、当時差別されていた『罪人』の位置に立ちつくし、差別によって
維持されていた神殿や宗教を批判したことで国家権力の介入によって十字架につけ
られたのではなかったか。当時の宗教の主流が人間の価値を、神の名によって法を守
る量で決めていたのに対してイエスは、それを拒否したのではなかったかというこ
とを教えてくださいました(イエスは「自らの振舞を、律法によってはもとよりのこ
と、神によっても正当化しなかった」。イエスは「自己を主張する手段として引き合
いに出される『神』を捨てたのである」。『イエスとその時代』177~178頁)。
きょうの箇所では、ヤコブもまた「神」を捨てることを家族や共にいる者たちに対
して語っています(「2あなたがたのうちにある異なる神々を捨て、身を清めて着物
を着替えなさい。3われわれは立ってベテルに上り、その所でわたしの苦難の日にわ
たしにこたえ、かつわたしの行く道で共におられた神に祭壇を造ろう」)。この「神」
とは、異教崇拝やそのための祭具の意味もあるでしょうが、それだけではなく自己正
当化や自己主張のために用いられる「神」を捨てよとの語り掛けでもあったのではな
いのでしょうか。直前の34章にはヤコブの息子たちが行ったシケムでの虐殺と略奪
について書いてあります。ヤコブは息子たちの報復の正当化ではなく、そのような暴
力を肯定し得るすべてを捨てて、新たに歩み出すベテルへの礼拝と巡礼の道を進ん
でいこうとしたのではないでしょうか。わたしたちは、神に責任転嫁するのではなく、
イエスが示されたように、自らの責任で振舞う主体へと解放してくださった神によ
って自らの責任を取り戻し、平和をつくり出す者としての歩みをはじめましょう。

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