2024年12月29日
「主イエスと共に、一歩、前へ」 原田 賢
コリントの信徒への手紙一 12章22節(聖書協会共同訳)
「22 体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」。この言葉は、一見、美しく感じます。弱さごと自分を受けとめてもらえるときに「自分は受容された」と感じるものです。しかし、よく読むとこの箇所は、そうした「受容」を越えていることに気づきます。「受容」を越えて「必要だ」とパウロは語ります。よく考えると、不思議な言葉です。パウロの語る「共同体の話」としても、「自分個人の話」としても、私たちは弱さを必要だと思うことができるでしょうか。弱さとは何でしょうか。
続く箇所で、パウロは「弱さ」を「23 つまらないと思われる部分」、「23 恰好の悪い部分」、「24 劣っている部分」と言いかえていきます。自分の中にそのような場所を見つけたとき、私たちはどうするでしょう。覆い隠そうとしたり、恰好の良いものに変えようとしないでしょうか。なぜそうするかと言えば、「そのままでいられたら困るから」だと思うのです。弱さとは「私たちが志す“恰好の良いもの”の逆側に存在するもの・私たちを困らせるもの」だと言えるのかもしれません。だからこそ私たちは、弱さが克服されることを願い、少しでも「弱くないもの」に変化することを願うのではないでしょうか。
パウロは「21 目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えない」と語ります。それは、一つ一つの部分が「別のものに変化すること」ではなく、そのままの姿で意味を持つことを意味します。「弱さが弱さのままで価値を持つこと = 私たちの志の逆側に存在し、私たちを困らせるものが、そのままの姿で“あって良かった”と思えるようになること」、それが「弱さが必要だ」ということです。なんと不思議なことでしょうか。
私自身も多くの弱さを抱えています。そして、その弱さに困り果て、「お前は要らない」と抑圧してきました。それは、実は自分自身のいのちを傷つけることでした。そうなると頭で分かっていても、実際に「弱さ」を前にすると「どうにか変わって欲しい」と願い、そうならない現実に疲れて、どこかへ追いやりたくなってしまう。そのような日々を思う時、「あの弱さが必要だった」と思える日が来たなら、それは奇跡だと思わされます。そして、その奇跡を待ち望んでいる傷だらけのいのちと出会うのです。
ここに、「あなたが必要だ」と語って下さる主イエスと共に生きる道が拓かれます。私たちには「弱さ」としか思えないものに「尊さ」を見出す主イエスのまなざしを思う日々、その尊さが自分にも心から分かる日が来ることを望む日々、そしてふいにその尊さに目を開かされ、その小さな奇跡に心から感謝することができる日々、そのような日々を「主イエスと共にある日々」と呼ぶのでしょう。
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