2024年12月1日
「偶然性に生かされて」 永松 博
マタイによる福音書1章18~21節(聖書協会共同訳)
いま、便利さの反面、「偶然性」に乏しくなっているかもしれません。目的地に向けて出発するような場合、スマホやナビを使えば、道に迷ったり、時間に遅れたりするリスクを容易に回避でき、初めて行く場所であっても、早く、効率よく、スムーズにたどり着くことができます。一方、道に迷った場合に起こる偶然のドラマや、出会い等は、非常に少なくなったとも言えます。「コスパ」(コストパフォーマンス=費用対効果)、「タイパ」(タイムパフォーマンス=時間対効果)という言葉があふれる現代では、無駄や、非効率、リスクなどはできるだけ避け、スマートに生きていくことこそが”正しい”と評価されます。しかし、人生には、まったく予想もしていない出来事や、出会いを通して、心動かされ、その後の生き方にまで大きな影響を及ぼすということがあるのです。そして聖書は、その偶然をこそ「救い」と呼びます。
きょうの箇所に登場する、ヨセフとマリアの二人も、人生計画にはなかった、予期せぬ謎の妊娠というハプニングに直面しました(「18マリアはヨセフと婚約していたが、一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが分かった」)。ヨセフが、この出来事によって恐れ、心騒がせたことは、彼の夢に現れた天使の言葉(「20ダビデの子ヨセフ、恐れず…」)からも分かります。ヨセフは、夢に出てくるほど悩み、裏切られたショックや、婚約者への疑心なども感じていたことでしょう。「19正しい人」と言われているヨセフも、婚約者の理解不能な予期せぬ妊娠というハプニングを、愉しみ、受け入れることは到底不可能であり、当時の社会的正義によるさばきを回避することで精一杯でした(「19マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した」)。離縁後の母子の人生まで慮ることなどできませんでした。しかし、主の天使は、夢の中で、「20恐れずマリアを妻に迎え」るというまったく別の道を示しました。この道は、母子のいのちが救われるだけではなく、ヨセフ自身の救いとも繋がっていたことを聖書は語っています(21)。もしかすると救いとは、準備、想定して、無事に、効率的にたどり着くようなものではないのかもしれません。むしろ、予期せぬ出会いや出来事の中で、自分がひっくり返され、独りでは決して辿り着かなかった方へと神の息(聖霊)によって方向づけられることであり、それを共によろこんでいくことかもしれません。わたしたちが求めてやまない、平和も、救いも、天の国も、どうもそのあたりにあるようにわたしには思われます。
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