2024年10月13日
「十字路に立って」 永松 博
エレミヤ書6章13~17節(聖書協会共同訳)
先日、ひとつの記事を目にしました。およそ一月前(9/16)に日本基督教団教会青
年大会が全国 6 ヵ所をオンラインでつないで開催された記事で(キリスト教新聞社)、
約 270 人の中高大学生から社会人、教職者が参加したそうです。大会では、講師の
一人で北陸学院学院長の堀岡満喜子氏が、「感受性が強い人ほど生きにくい現代社会」
であると語り、「現実から逃避させ、民衆に諦めを説く宗教を『アヘン』と非難した
マルクスの言葉を引用し、「教会が現実に対峙するのではなく、苦しみや悲しみを和
らげるだけの場所になっていないか」と提起」したとありました。
これはきょうの預言者エレミヤを通して語られている主なる神の言葉とも重なっ
て響いてきました(「14 彼らは、わが民の傷を安易に癒やして/「平和、平和」と言
うが、平和などはない」)。当時、実際に存在していた、にせ預言者や祭司たちは、「安
らかでいられますよ」「安心しなさい」と耳ざわりのよいメッセージを手軽に語って
いたようです。ほんとうは傷と裂け目は深く深刻な状況にあるにもかかわらず、傷を
浅くいやし、ついには手遅れとなって死に追いやるような宗教指導者ばかりであり、
民も手軽な癒しを求めたと言います(「5:12 主が何だ。/我々に災いが臨むことはな
い。/剣や飢饉を我々が見ることはない。13 預言者たちは風となり/御言葉は彼ら
の内にはなく/それは彼らに成就する。…31 預言者たちは偽って預言をし/祭司た
ちは自分勝手に治め/わが民はそれを好んでいる。/しかしその果てに、あなたが
たはどうするつもりか」)。けれども神は民をあきらめません。「16 十字路に立って、
眺めよ」との神の声はエレミヤを通して響きました。神は痛みつつ「幸いの道を歩み、
魂に安らぎを見いだせ」と語り、民をまことの平和へと招いたのです。
きょう、み言葉に聴くわたしたちもまた、十字路で立ち止まり、どちらへ進むべき
か考えさせられます。神が招く道へと一歩を踏み出すということは、神との関係にお
いて自らの恥を自覚することでもあるのではないでしょうか。パウロは次のように
言いました。「ローマ 6:20 あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自
由の身でした。21 では、その時、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では
恥とするものです。その行き着くところは死です。22 しかし、今や罪から自由にさ
れて神の奴隷となり、聖なる者となるための実を結んでいます。その行き着くとこ
ろは永遠の命です」と。神との関係において自らを「恥ずかしい」(15)と感じる感
性を取り戻し、だからこそ神と共に現実と対峙して生きましょう。まことの平和はそ
の先に供えられています。