2024年6月2日 礼拝より
「悲しみ、さいわい」 永松 博
コリント人への第二の手紙1章3~11節
日本語で慰めは、慰安、慰問などの用例からも分かるように、打ちひしがれた人の
悲しみや、どうしようもない淋しさ、不安、疲れに対して、具体的な言葉をかけたり、
何かをしてあげることで一時忘れさせたり、ねぎらう行動を言います。つまり、悲し
みを忘れさせ、無くさせることが慰めの意味であるようです。けれどもイエスは、悲
しんでいる人たちに対して、「さいわいだ、慰められるだろう」と語りました(「悲し
んでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう」マタイ 5 章 4 節)。
イエスが語った「慰められるだろう」という未来形は、やがて慰められるという希望
の意味だけではありませんでした。悲しんでいる人を前にして、いま「さいわいだ」
と感嘆し、もう慰めがそこではじまっていることをも語ったのでした。
きょうのパウロの言葉もイエスの言ういまの慰めと重なるように思います。慰め
とは、苦難や患難を避けることではありません。むしろ悲しみの中にあっても、生き
ていく勇気を与え、悲しみに立ち向かわせ、苦しみに耐え抜く力のことだとパウロは
言うのです(Ⅱコリント 1 章 6~7 節「6…慰めは、わたしたちが受けているのと同じ
苦難に耐えさせる力となるのである。7…あなたがたが、わたしたちと共に苦難にあ
ずかっているように、慰めにも共にあずかっていることを知っている…」)。
パウロがきょう 9 回も繰り返す「慰め」という言葉の動詞は(παρακαλέω)、傍らに
(παρα)呼ぶ(καλέω)の意味です。聖書が語る慰めは、悲しみを忘れさせるのとはちがっ
ていて、悲しみの中にあって神を求め、神を自分の方に招く、苦難の中にあってキリ
ストと出会い、キリストを自分の味方につける、ことを言うのです。患難の中にあっ
ても、神が共にいてくださるということが聖書の語る慰めです。
教会は「慰めの共同体」と言われます。教会は、慰めによって悲しみを忘れた者た
ちの共同体ではなく、悲しみを知る者たちの共同体です。悲しみを知っているからこ
そ、そして悲しみを知り続けているからこそ、悲しむ者同士共振し、お互いにひとり
ではないことを確かめ合い、慰め主(παράκλητος)の伴いに、さいわいを見出して生き
ていく場所です(Ⅱコリント 1 章 4 節「神は、いかなる患難の中にいる時でもわた
したちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをも
って、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのであ
る」)。悲しみ溢れるこの世界にあって、悲しみを忘れ去り、忌避するのではなく、悲
しみの中に働く慰め主によって共に共振しながら生きていこうではありませんか。