2024年12月8日
「春を告げる声がする」 永松 博
マタイによる福音書1章22~25節(聖書協会共同訳)
きょうの招詞であるエレミヤ書1章には、目覚めの木・アーモンドが出てきます。アーモンドは、生育条件の良くないユダヤの荒地の岩の裂れ目にも根を張って育ちます。また、アーモンドは「早くに目覚める(シャーケード דקֵשָׁ)」の意味をも持ち、パレスチナでは2~3月、早ければ1月ごろ、どの植物よりも早く桜(ソメイヨシノ)に良く似た花を、枯れ木のような枝にいっぱい咲かせ、荒地に春を告げます(このことから復活のキリストの象徴ともなった)。エレミヤは、自分や祖国にとって辛い冬は去り、荒地に春を告げるあめんどうの花が咲き誇る日を見、信じ、自らも目覚めの木として、神の眼差しと同じ方を見つめながら、その日を待ち望み生きた人でした。
「24ヨセフは目覚めて起きると、主の天使が命じたとおり、マリアを妻に迎えた」
このヨセフの目覚めは、夢からの目覚めであったのと同時に、新しいいのちへの目覚めでもあったのではないでしょうか。神の息吹(聖霊)によって、自分の正しさと決心をひっくり返され、自分が母子と共に生かされていったヨセフは、夢から覚め、実際にマリアを妻として迎えました。新しいいのちは聖霊によって示された方向へと実際に生きてみるところにあります。
そしてもう一つ、新しいいのちへと目覚めたヨセフは、生まれた子に名前を付けます。さらりと書いてありますが、ここには新しいいのちを生き続けたヨセフの姿をも読み取れます。ヨセフは、マリアの妊娠から、イエスが生まれるそのときまで新しいいのちを生き続けたのです。出産までの日々の中で、ヨセフは、何度、夢へと逆戻りしそうになったことでしょうか。「この出来事さえなければ」、「やはりわたしには受け止められない」と何度思ってしまったか分かりません。けれども、その度にヨセフを支えたのは「20ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである」との言葉だったのではないのでしょうか。聖書の言葉は、目覚めて、信じ生きる者のいのちを生かし、支え、導き続けます。
そして、場面はついに男の子の誕生の時を迎えました。生まれ出た子を見たときのヨセフの心境もまた想像させられます。その子の誕生を両手放しで心から喜ぶことができたのか、もしくはまた再び複雑な心境となったか分かりません。いずれにしろ、この時もまた、ヨセフを支えたのは「21その子をイエスと名付けなさい」との言葉だったでしょう。ヨセフは、この言葉に方向づけられ、「25…その子をイエスと名付け」て生きていきました。わたしたちも、人生において精一杯悩み、自ら考える正しさに拠って、夢を見て生きる者です。しかし、同時に夢の中で響く声もある。わたしたちの目を覚まさせ、新しいいのちへ導き、荒地に春を告げる声が。この世に生まれ、復活したイエスを見つめ、告白して生きよう。冬のあと春は必ずやって来る、と。
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