2024年11月10日
「痛みによって」 永松 博
エレミヤ書31章27~34節(聖書協会共同訳)
「愛する者を失うものが実に多いのは人生の悲しみである。しかし人間が愛するものをもつことができず、また愛するものが死んでも平気でいられるようにできていたら、人生はうるおいのないものになるであろう。愛と死、これはだれもが一度はとおらねばならない。」(武者小路実篤『愛と死』あとがきより)
できることならだれもが、悲しみや、痛みは避けたいと願うものでしょう。しかし、だれもが人を愛し、その死によって、悲しみと痛みをとおらねばならないならば、悲しみと痛みは、避けるよりもむしろ、その中にあっていかに生きていくかが人生のひとつのテーマとなるようにも思われます。
悲しみ痛む者たちにとっての救いと慰めは、同じく愛するがゆえに「悲しみ痛む神」によってのみ与えられると聖書は語ります。「31:20彼のことを語る度に、なおいっそう彼を思い出し/彼のために私のはらわたはもだえ/彼を憐れまずにはいられない――主の仰せ」。ここで神は、苦しむことなき神としてではなく、愛するがゆえに苦しむ神です(新共同訳「胸は高鳴り」、口語訳「わたしの心は彼をしたっている」、ルター訳「mein Herz bricht mir(英訳:my heart is broken)」、カルバン「わが腸は彼のために鳴り響く」)。神は、この上なく愛する「彼」に繰り返し裏切られ、預言者エレミヤを通して40年もの間、その怒りの熱は冷めることなく語られました。しかし、31章に達し、ついに180度転換します。痛みは腸に響き、ちぎれるほどですが、その傷みに基礎づけられた愛に至り「34私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない」との赦しが語られます。「神でさえも彼の地獄を持っている。それは、人間に対する彼の愛である」と言った人がいますが、神は人とは異なる永遠者、超越者として痛むことのない存在としてではなく、苦もなくはできない愛によって赦し「31新しい契約を結ぶ…33心に書き記す」と言うのです。遠藤周作の『沈黙』の中で、主人公の司祭が泣きながら銅板上のイエスを踏もうとした時のイエスの言葉を思い出します。「踏むがいい。おまえの足の痛さをこの私が一番良く知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ」ここに、痛みにおいていのちを慈しみ、新しい契約を心に刻みつける痛みに基礎づけられた愛の神を見るのです。愛するがゆえに痛む神は、あの十字架において痛む者を一人にすることなく共にいて救う神です。だれかを愛するがゆえに痛み、悲しむ者と共に、神は十字架の上で共にいることを選ばれた神です。そして、この痛みには先があります。痛みは痛みでは終わらず、死の苦しみをも越えて、愛へ至るのです(「死は最後のものではない。愛はそれに打ちかつ力をもっている。愛こそわれらを導くのだ」武者小路実篤『人生論』より)。
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