福音という競技

2024年4月28日 礼拝より
「福音という競技」 永松 博
コリント人への第一の手紙9章19~27節

今年度、はやくもいくつかの小学校では運動会に向けて準備がはじまっています。
また今年の夏、フランス・パリで開催されるオリンピックは、32 競技 329 種目が予
定されています。きょうの聖書の話も、当時のコリントで二年に一度、催されていた
イストミア大競技祭のたとえが語られています。イストミア大競技祭は、ギリシアの
スポーツ祭典としては二大大会の一つで、ボクシング、競走、レスリング、円盤投げ、
やり投げなどの競技者たちが、逞しく鍛え上げられた肉体と技術で競い合っていま
した。今日の箇所で、伝道者パウロは、まるでスパルタコーチのように教会の信仰者
たちに向かって語ります。「あなたがたも、賞を得るように走りなさい」(24)。「す
べて競技をする者は、何ごとにも節制をする」(25)。「自分のからだを打ちたたいて
服従させるのである」(27)と。特に「打ちたたく(hypopiazo)」は、ボクシング用
語で、元々「相手を打って、目の周りに黒あざをつける」の意味だそうですので、そ
の拳を自らに向けよとのパウロの言う節制が示す厳しさを感じます。
そもそも福音を競技にたとえることができるのでしょうか。福音とは、他者と競う
ものではありませんし、信仰者のうちのひとりだけが「朽ちない冠」(25)賞を得ら
れるというのでもないでしょう(「わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、
律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」ローマ人への手紙 3 章 28 節)。
それでもあえてパウロが福音を競技にたとえたのは「すべてのことは、わたしに許さ
れている」「わたしたちはみな知識を持っている」これぞ福音、と誤認する人たちが
おり、自由自在で良いのだと躓き迷う人たちもいたからです。
福音を競技にたとえらたことで、改めて福音とは何か、その性質が明らかになった
ように思います。福音とは、何でもアリではない。かといってひとり鍛えた筋肉や技
能によってたどり着くことができるような競技でもない。共にあずかろうとするこ
とによって鍛えられ、共にあずかる性質を持つのです。かつてキリスト者を迫害して
いたパウロ自身、敵であった自分をもなんとかして救おうと、どんな事でも為し、十
字架にかかられたイエスを前にし、その福音に生かされて自分を受け入れてくれた
教会を思うとき、もはや自ら進んですべての人に仕え、共に福音にあずかるために生
きる外なかったのです。
福音という競技は、わたしとあなたが共にあずかるために、「わたしたち」となっ
て、互いに学び、変えられて、新たに生きようとするものです。

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