2024年1月28日の礼拝より
「行く途中で」 大下 仁
ルカによる福音書 17 章 11~19 節
エルサレムに向かうイエスの旅は十字架に向かう旅でしたが、それはまた神の国
を告げ、神の慈しみをあらわし続ける旅でもありました。きょうの出来事は、ルカ福
音書だけが伝えるものです。前回の永松先生の宣教の中でも触れられた通り、歴史的
事情のため、サマリヤ人とユダヤ人は反目し合っていました。しかし、こうした背景
はあっても、同じ「らい病」を病む人たちは、立場を超えて苦しむ者同士として助け
合いながら、律法に従い、隔離された場所で共同生活をしていました。現在は病の名
称も「ハンセン病」とされていますが、日本において近代の歴史の中でも、患者たち
は強制隔離や強制断種など差別を受けつづけてきました。今日は、少しですが、その
歴史を思い起こすとともに、当事者のキリスト者として聖書の表記について、あまり
取り上げられないその声をお聞きしたい、分かち合いたいと思っています。そして次
に、このテキストから2つの大切な言葉を取り上げて、共に思いを巡らせたいと願っ
ています。
イエス様に出会ったのは、一人のサマリヤ人を含む十人のこの病気に罹患した人
たちでした。彼らは、イエス様の言葉に信頼して従い、夫々の祭司のところに出かけ
て行ったのですが、その「行く途中で」で清められた、治癒したと記されています。
治ってから出発したのではなく、行く途中で癒されたのです。私たちも、身に抱える
問題、不安、つらさを一人一人与えられています。解決してから歩き出すのではなく、
主に信頼して歩んでいく生活を続ける中で、これまでも恵みを受けてきたというこ
とは、誰しも思い当たるのではないでしょうか。この「行く途中で」がその大切な言
葉の一つです。
そして、このサマリヤ人は、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、イエスの足
もとにひれ伏して感謝した、とあります。この「感謝する」という言葉が二つ目です。
聖書では、救われたという事は自分の問題が解決されることではなく、その問題を解
決してくださった方が誰であるかを知って、その方を信じるようになる事、その方と
交わるようになることと教えられてきました。そのようにして、このサマリヤ人のよ
うに、心から感謝と賛美を生きるものとならせて頂きたいと願います。