記念として語られる

2024年1月7日の礼拝より
「記念として語られる」  大下 仁
マルコによる福音書14章3~9節

 イエス様がエルサレムの近くにあるベタニヤの村で、シモンの家に滞在しておられた時のことです。食事の席に、ひとりの女が突然入ってきた。無名の女です。その場にいた人たちは、驚いたことでしょうが、さらに驚かされたのは、その女が純粋なナルドの香油の入った壺を壊して、その香油をイエス様の頭に注ぎかけたことです。辺り一面には、香油の香り。異常事態です。この香油は、ユダヤから遠く離れたヒマラヤの山岳地帯に自生する植物から抽出されたものなので、とても高価でした。一同は一瞬言葉を失い、陶然とした雰囲気の中で沈黙があったと思います。この女も、イエス様も声を出しません。この女の行動の理由も分かりません。しかし、先ずこの行為を咎めた人たちがいました。彼らは憤慨して「なんのために香油をこんなにむだにするのか。この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」と言います。この人たちの言葉は、一見、正論のようではあります。しかしイエス様は、「わたしによい事をしてくれたのだ。」と言って、自分のかけがえのない大切なものをイエス様に向かって献げ尽くした女の行為をとてもお喜びになりました。読んでいて、ホッとさせられるところです。私たちも、神様に喜ばれるはずと思ってしたことが、結局は思慮が浅く周囲から批判されてしまうようなことがあります。しかしイエス様はこの女を弁護されたように、私たちの奉仕をも嘉して「良いこと」と受け入れてくださるとき、価値あるものとなるのだと思います。そしてこの女は、愛するイエス様の死が近いことを、何か不思議なことではありますが、霊的な感性で受け止め、主が共に在る恵みが失われることを悲しみ、深い愛の思いの発露として、あのような非常識とも見える行為へとつながったのではないでしょうか。イエス様は、女の行動を弁護して、「あらかじめ葬りの用意をしてくれた」、「よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のしたことも記念として語られるであろう。」と彼女の行為の受難における意義を明らかにし、また最大級の賛辞を贈りました。とても印象的な聖書の一場面ですね。

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