2024年2月18日の礼拝より
「『恵みの家』(ベテスダ)となるために」 坂本 献
ヨハネによる福音書5章1~9節
色々な機会に人と出会う時、「元気ですか?」とか「いかがですか」等お尋ねします。その通常のような挨拶ですが、時には「私は元気ですが、息子のことで、夫のことで」心配や気掛かりがあることをお話してくださる方もおられますし、そこから対話が深まったいくこと、祈りに覚えるべきことを知らされることもあります。今日のあなたは(あるいは教会は)「元気ですか?」と問われたら何と答えるでしょうか?
本日のヨハネ福音書5章の場面、時はエルサレムの祭りのにぎやかな時、そして、安息日。イエスさまは「ベテスダ」という池のある場所に赴かれます。「ベテスダ」とは「愛の家」という意味です(ちなみに「ベツレヘム」は「パンの家」、「ベツサイダ」は「漁師の家」と「ベテ、ベツ」は「~の家」の意味)。その場所には大勢の病人が集う場所であり、3節後半では「彼らは水が動くのを待っていた」と説明されるのは「天使が水を動かす」伝説があったのです。「水が動く」というのは「間欠泉」のひとつと考えられ、ある時間に温泉か冷泉が噴出したのでしょう。つまり、この場所は今で言う二つのプールを持つ温泉病院のような場所であり、名付けるなら「神の愛診療所」です。
イエスさまは祭りの中で置き去りにされ、38年もの間病を抱えていた人と出会います。多分この人が一番長くその施設にいたのでしょう。そして主はその人に語りかけ「なおりたいのか」と問います。通常なら「当たり前だよ、辛いよ、苦しいよ、早く良くなりたいよ」と答えるのですが、彼の言葉はそうでありませんでした。その後の対話の中で、この人が歩んできた状況が語られます。
この人は主イエスに語るのです。「誰もわたしのことなど気にもしていません、わたしは誰からも忘れ去られた存在です」ということを。その人と主は対話しつつ、その命の持つ痛みに深く共感します(決して二言、三言ですむ対話ではなかった。すべての対話を記すと大変なので)。
そして、主イエスはひとつの奇跡を起こされますが、主は常に「奇跡を起こす方」としては立たれません(ヨハネ11章も同じ)。主イエスがその人のことを深く知り、共に痛み、共に悩む中で、加えて、その人自身が願う時にこそ、人が「奇跡」と呼ばれるものが、人を生かす道が引き起こされるのです。
今日も主は我らの傍らに来られます。あなたを知り、あなたの友として、あなたの痛み苦しみを共に生きる方として。