2024年7月28日より
「何事にも時がある」鬼澤寛神学生(東京バプテスト神学校専攻科1年)
「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」伝道の書3章1節
篠崎キリスト教会の鬼澤です。私がクリスチャンになるきっかけをくれた言葉、今日はその箇所についてお話ししたいと思います。還暦を迎える年になった時に、これを機に何かやり残した事が無いかと考えました。何度読んでみても理解出来なくて、悔しい思いをした聖書の事を思い出しました。もともと読書は好きでしたから、何とか理解しようと挑戦してみました。40年以上いろいろな聖書を読んでは来ましたが、一人で読んでいては無理だと思い、教会に行って教わろうと、散歩の途中で見つけた篠崎キリスト教会に電話をしました。この時は、私がクリスチャンになるなんてまったく思ってもみませんでした。教会の中に入った時に一番最初に目に入ったのが、「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」コヘレトの言葉 第3章1節、この言葉が書かれている額でした。時がきたのかなと、漠然と感じました。伝導の書は「神の定めた時」が語られています。「生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、」は、有名な言葉です。私たちはこの世に生を受け、喜びや悲しみ、成功や挫折、いろいろな経験をしながら、年老いて、やがて死んでいきます。この世界で起こるそれぞれに、時があると語っています。「生まれる時、死ぬ時」を人は選択できません。生れてきた者は、等しく平等に死を与えられます。時の中には私たちが決定できる時もありますが、多くの時は私たちの意思を超えた所で決定されています。人生の大きな枠組である「生まれる時、死ぬ時」を、私たちは選ぶことは出来ません。私たちの時を支配しているのは私たちではなく、別の存在です。私たちはそれを「神」と呼びます。私たちは生きているのではなく、生かされているのです。『伝導の書第3章』は私たちの時を支配されている神がおられ、その神の御心に自分を合わせることに信仰があり、神の御心に自らを組込む事によって、心から神を賛美する事が出来ると語っていると思います。