2024年1月21日の礼拝より
「時は昼の十二時、そう今だ」 永松 博
ヨハネによる福音書4章1~26節
きょうの聖書における「サマリヤ人」と「ユダヤ人」は、わたしたちが日頃「ここだけは相容れない」とちがいを感じている他者と自分とに当てはまるように思います。イエスは「ユダヤ教」の「男性」という枠内の端にいた人だったでしょうが、この枠内の主流派が北へ行くとき、たとえサマリヤを通る道が最短最速であっても、迂回するのが正道でした。価値観がちがう相手を下に見、あろうことか宗教もそれを汚れと見なし、助けを求めるなど言語道断と考えていたのです。「サマリヤを通過しなければならなかった」(4節)との表現からも、仕方なさを感じます。
この時のイエスは、わたしたちと同様、疲れ、渇いている人間でした(6節「イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた」)。「時は昼の十二時ごろ」といえば、一般的には昼食の時間であり、エネルギーが不足する時です。また、太陽が最も高くから照って気温が上がり、渇く時でもあります。しかし聖書は、疲れや渇く昼の十二の時を、「そうだ、今」だ(23節)と、神の時としても語っているように思います。イエスの疲れと渇きがたまたま水を汲みにきたサマリヤ人女性に「水を飲ませて下さい」と助けを求めるよう導き、それが当時の枠を越える光となり、イエスを救い主たらしめたと言うと、果たして言いすぎでしょうか。
イエスが語った「生ける水」(10節)とは、本来、池や水たまりのように動かぬ水に対して泉や川のように流れる水の意味です。神は、疲れや渇きの時を逃さず「そうだ、今」だと働き、当時イエス自身も受肉し持っていたかもしれない社会の固定概念や価値基準を動かし、押し流したのではないかと思うのです。どんなに違っているように思える相手であっても、遺伝子的な違いは0.1%にすぎず、99.9%は同じだと言われます。そう思えば互いのちがいはまったく小さなことのようですが、その0.1%によって今もなお争いと悲劇が起こっているのが現実です。しかし、希望は神にあります。わたしたちがもっとも疲れ、渇くその時に、神は働かれることを信じて、勇気を出して「助けてください」と求めて生きましょう。そのとき、不足している者に具体的な必要が備えられます。生ける水を求める者には今までの古い価値観としての「この山でも、またエルサレムでもない」(21節)まったく新しい泉がわたしたちの内に「永遠の命に至る水」として与えられます。さぁ、まもなく時は昼の十二時ごろ、「そうだ、今」だといわんばかりにイエスは「あなたと話しているこのわたしが、それ(救い主)である」と語ります(26節)。主イエスを礼拝して生きてみませんか。