2024年8月4日より
「脱出、そしてその先に」 永松 博
創世記31章1~13節
8 月、平和月間第一週のテーマは「脱出」です。きょう聖書の神は、「13いま立っ
てこの地を出」よ、と脱出を促し、伴われる神です。不条理と支配の中にあって、解
放に向かって伴ってくださる神の存在は、救いです。
「愛の宗教」と言われるキリスト教は、あまりにも多くの場合に「留まって、愛し
なさい」とだけ語っていないだろうかと問われます。愛の結論が「愛さなければなら
ない」という新たな律法と化していないか。「愛せるように」との祈りと勧めが、傷
を受け「隣人を愛せない」ことに苦闘し、葛藤する人を追い詰めて、自己嫌悪を増幅
させてはいないか。愛の勧めが、支配や暴力の構造を下支えし、ハラスメントの温床
となっていないかと問われます。
当初、ヤコブと叔父との関係は良好でした。兄を欺いて実家から逃れ、叔父を訪ね
て旅をしたヤコブは、叔父の元にたどり着いたとき、喜びと安堵からか声をあげて泣
きました(29章11節)。叔父もヤコブを「わたしの骨肉」(29章14節)と呼び、
甥だからといってただ働きではなく希望の報酬を与える(29章15節)と約束して、
関係は良好でした。しかし、20年の時が過ぎ、両者の関係性はいびつになりました。
ヤコブは、寄留者として叔父ラバンに従属し(30章30節も参照)、きょうの箇所で
は叔父の顔色を気にするようになっています(2節)。またヤコブは、報酬について
10 回も叔父に欺かれたとも言っています(7節)。このとき神は「留まり愛せよ」と
は言われません。叔父の悪だくみを見(12節)、その加害を阻み(7節)、ヤコブに
報酬を与え(8~10節)、脱出を命じました(13節)。脱出(逃亡)は、既存の家族
観にとって、平和どころかつるぎが投げ込まれるかのようなことに感じるかもしれ
ませんが(マタイ10章34~37節)これも神の救いの一部でした。神の大きな救い
のみわざはこの脱出だけに留まりません。神は、ヤコブだけでなく、このあと、追い
かけて来るラバンにも働いて(24節)、いびつとなった原因を正し、関係性をつなぎ
なおされるのです(54~55節)。読者は、当事者たちが知り得ない、神の大いなる最
善が一つずつなされていることを知ることができます。改めて物語を大きく見るな
らば、かつて兄を騙したヤコブは、この20年で騙される側の痛みを学び、脱出によ
って救われ、叔父との関係の修復をも体験し、今度は関係が壊れたままの兄のもとへ
と導かれているのです。戦争の時代、律法主義的な愛に平和など見出せません。しか
し、主イエスが十字架で示された福音という愛は、愛なき者の苦しみも、葛藤も受け
容れ、それでも「わたしはあなたを愛している」と大声で語り、受け取った者に“何
か”を生み続けています。“何か”を与えてくださるお方に平和への望みを感じます。