眠って休んでそれでいい

2026年3月22日(日)

       「眠って休んでそれでいい」      永松 博

マルコによる福音書14章32~42節(聖書協会共同訳)

年度末、そして受難節、眠れなくなりやすい時期、「眠れていますか」。
ゲツセマネでイエスは、繰り返し、目を覚ましているようにと語りました(34節、38節)。しかし、最後には「41まだ眠っているのか。休んでいるのか。もうよかろう…42立て、行こう」と言いました。「もうよかろう」の厳密な意味は不明です。しかし、元は商取引の妥結を示す言葉でした(岩波脚注)。「眠たいなら寝ていればいい。私は一人で行く」でもなく、「目を覚ましていることができた者とだけ一緒に行こう」でもなく、イエスは眠っていた者らと共に歩み出していきます。
状況的には、太陽が沈み、月と星が出る、暗い夜中、過越の食事を終えて満腹の一行です。ある意味、眠くて当然です。それでも、イエスは繰り返し「目を覚ましていなさい」と言いました。「目を覚ましていなさい」は、この日だけでなく、13章から言われ続けていました(「13:33気をつけて、目を覚ましていなさい」、「13:34目を覚ましているように」、「13:35だから、目を覚ましていなさい」)。それでも、最後は「41もうよかろう」と言ったことになります。
「目を覚ましていなさい」とのイエスの言葉をどう受け止めるでしょうか。私は、これまで「眠ることなく祈り続ける」ことへの要請だと受け止めてきました。心を研ぎ澄まし、誰かの痛みに共感し、弱く小さくされている人と出会い続け、低みにいます神のまなざしで物事を見直していくことだと受け止めてきました。イエスは、最後まで、死ぬほどの恐怖と苦痛に対して、一緒に祈ってほしい、分かってほしい、と願っているからです。
けれども、ゲツセマネの話しは、結局、誰一人目を覚ましていられなかったというのが結末です。ゲツセマネでのイエスは、結局は、ただ一人で、神に向かって「とうちゃん、できればいやだ。できればやめたい…でも自分本位じゃなかった…御心のままに」と叫んだと言います。繰り返し同じ言葉で(38節)、三度(14節)、神に叫ぶ姿が記されています。その上での言葉が「41まだ眠っているのか、休んでいるのか。もうよかろう」です。最近、私は、もしかするとイエスの「もうよかろう」は、弟子たちへの諦めでも、叱責でもなく、優しさ以外の何ものでもなかったのではないだろうか、と思います。キリスト者の生活は、どれだけイエスに従えるかとの24時間、365日耐久競争をしているわけではないでしょう。それぞれ精一杯頑張ったらあとはイエスに信頼して、眠って、休んでいいのではないのでしょうか。そして、すべてを引き受けて眠っていい、休んでいい、と言われるイエスに振盪するならば、イエスと共に、交代で目を覚ましていられるよう、見張り役を分担し、互いに必要な睡眠時間が確保できるよう仲間を探していくのではないでしょうか。

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