まなざしに生かされて

2024年9月8日
「まなざしに生かされて」永松 博
創世記39章1~23節
「冤罪」とは、無実であるにもかかわらず罰せられることです。冤罪は、その人の
尊厳を傷つけ、関わる周りの家族などにも大きな影響を及ぼし、場合によっては生命
まで奪う、国による人権侵害です。
きょう聖書に登場するヨセフも、明らかな冤罪によって獄屋に投げ入れられてい
ます。ヨセフの場合、早くに母親を亡くし、兄弟からは恨まれて奴隷として売られ、
すでに若いうちから尊厳が傷ついていました。それでもヨセフは見ず知らずのエジ
プトの地で、精一杯働いて主人の信頼を得、やがて家と主人の持ち物をみな委ねられ
るまでになりました。しかし、すべてが水泡に帰す事件が起こります。主人のパート
ナーに好意を寄せられ、断ると、冤罪を着せられ牢獄に入れられてしまいました。ヨ
セフの権利も自由もありません。
いま日本の裁判制度は、国民の権利や自由を守るために、三審制を採っています。
第一審判決に不服があれば控訴し、控訴審も不服ならば上告し、最後に最高裁の決定
が確定判決となります。けれども、確定判決が冤罪の場合は、一度下された確定判決
を覆すのは凄まじいエネルギーを要することになります。下された確定判決が冤罪
である場合の救済手段は「再審」しかありません。再審は、裁判所に確定判決を覆す
ような新しい証拠や鑑定を出し、再審請求が認められ、かつ検察側が特別抗告を断念
してやっと始まります。ただ、再審は「開かずの扉」と言われ再審自体が極めて稀な
のです。58年前の「袴田事件」で有罪とされた袴田巌さんの場合、判決確定から40
年あまりというあまりにも長い時を経て昨年やっと再審開始となりました。そして
61 年前、部落差別によって有罪とされた「狭山事件」では、いま石川一雄さんが再
審請求中です。法務省のHPには、検察の起訴で有罪となった割合は99%を超えて
いるとあり、信頼性が高いとされています。しかし、人は誰でも先入観や偏見があり、
間違う。だからこそ正しさではなく人は間違うとの前提に立ち、間違いを認めて向き
を変え生きたいものです。聖書は、冤罪で獄屋に入れられたヨセフには、「23主がヨ
セフと共におられた」と語っています。神が共におられるとは、苦難を避けることと
は違うようです。ヨセフと共にいた神の眼差しは、ヨセフがどのような状況の中にあ
っても、ヨセフを「奴隷の〇〇人だから」(14節,17節)とか、「囚人だから」とは偏
り見ず、ヨセフをひとりの人間として見つめる眼差しであったと言えるのではない
でしょうか。この神のまなざしこそ救いです。わたしたちも出自・性別・年齢・宗教
など様々な属性を越えて神のまなざしに生かされ、互いを見つめたいのです。

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