2024年9月22日
「命を救う」永松 博
創世記45章1~8節
「私たちがボランティアとして、私の場合は釜ヶ崎ですけれども、皆さんの場合は
色んな悩み、命の問題でぶつかってる、そんな人たちにどんな風に関わるのか。これ
皆さんの経験から色々おそらくお知りになってらっしゃることだと思いますけれど
も「力は弱さの中でこそ発揮される」…。 その力は、相談して下さる方と相談に応
える側と力はどっちが強いですか?大抵は相談を聞いて差し上げるこちらが強いも
んだっていう風に関わる本人自身が大体そう思ってしまいます。だけど、本当は違う
よって。…大事なことは、私は無力じゃない、多少の力はある。だから、その力でな
にかしてあげるんだ…とそういう風に、ついつい考えがち。だけど、徹底した価値の
転換が大事みたいですよ」(2022年12月10日『長崎いのちの電話だより60号』
本田哲郎神父長崎いのちの電話開局28周年記念公開講演会 講演抄録より)
「命を救う」のは誰で、それは何によってかと考えさせられます。
きょうの聖書箇所は、食料を蓄え持つヨセフが、食料を持たぬ兄弟たちにそれを分
け与えることを「5命を救う」、「7大いなる救をもってあなたがたの命を助ける」と
言っているのでしょうか。救いとは、持つ者が持たぬ者を助けることを言っているの
でしょうか。聖書はそのような価値観からの転換を十字架を通して語っているので
はなかったでしょうか。
主イエスの十字架によって示された救いは、この世で余裕を持つ者が、そうでない
者に分け与えるようなものではありませんでした。むしろ、イエスはこの世で誰ひと
り負うことのない苦しみを、「苦難の僕」(イザヤ53章)として引き受けられたので
はなかったか。キリスト者は、人知れず苦しみを負う者に救い主の面影を見つける者
ではないでしょうか。
ナチスに抵抗し処刑されたディートリッヒ・ボンヘッファーは次のように述べて
います。 「信じること、悔い改めることは、己の苦しみではなく、この世での神の
苦しみを真剣に受け止めること」である。そして、「この世界での神の苦しみに参与
することが悔い改めであり、このことが真の意味でキリスト者をつくる」のだと。
兄弟たちは、ヨセフの持つ食料によってだけではなく、彼が引き受けた苦しみによ
って、連帯して生きる方向へと自らを取り戻し救われたのではないのでしょうか。