繕われ、補われた者として

2024年3月31日 礼拝より
「繕われ、補われた者として」  永松 博
コリント人への第一の手紙1章10~18節

「さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにし、お互いの間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい」(Ⅰコリント1章10節)
人は組織や共同体に帰属しなければ生きていけません。神は人を共に生きるようにつくられました。一人で耐えられないことも、仲間が一緒ならば耐えることができ、多少の安心や場合によっては解決も得られます。だから人間は不安や恐怖に襲われたり、危機的な状況になったとき、神を求め、教会へと導かれるのでしょう。
しかし、集団には副作用もあります。集団は、時に暴走します。教会も例外ではありません。それは歴史も証明しています。個が、集団に属すると、異物になることのないようにと一致、同調しようと動きます。全体が右に行けば自分も右に、左に行けば左に行き、やがて暴走するのです(赤信号、みんなで渡れば怖くない)。
その意味で、「みな語ることを一つにし」と一致を求めるパウロの言葉には少々身構えてしまいます。けれども、ローマ人、ギリシヤ人、ユダヤ人など多人種民族が住む多文化の町に立てられた若いコリント教会は、そもそも人種も文化も社会的立場も異なる者たちが集いはじめたばかりのバラバラな集団だったようです。つまり、パウロとコリント教会が直面していた課題は、違う者たちがいかにして共同体たり得るかという問題だったようです。そこでパウロは「語ることを一つにし」と言います。共にみことばを読む、共に賛美歌を歌うという教会の基本的な一致が語られているのではないでしょうか。教会は、聖書の言葉を語り、賛美の歌声に合わせることによって形づくられます。またパウロは「同じ心、同じ思いになって堅く結び合っていてほしい」と言います。この動詞は、繕うとか、補うというように、正しい状態に回復するといった意味で使われます(「網を繕う」マタイ4:21、「あなたがたの信仰の足りないところを補いたい…」Ⅰテサロニケ3:10)。教会は、破れを繕い、不足を補われて正しい状態へと回復させられた者として、キリストの十字架を見つめつつ、交わりに生きます。
(「弱い者や見ばえのしない者、見たところ役に立たないと思われる者をキリスト者の共同体から閉め出すことは、まさに、貧しい兄弟の姿をとって戸を叩くキリストを閉め出すことを意味する」D・ボンヘッファー『共に生きる生活』)

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