あぁ、うらやましい

2026年11月1日(日)
「あぁ、うらやましい」  永松 博
詩編1章1~6節(聖書協会共同訳)
私たちはどのような時「うらやましい」と感じるでしょう。「他人や他の物事の様子、状態などが自分より恵まれているように見えて、自分もそうありたい」時です。
きょうの詩の作者の心境は、この「うらやましい」状態です。冒頭の一語「אשרי(アシュレー)」は、第三者が他人に対して羨望の眼差しで「あぁ、うらやましい!なんと幸せなんだろうか!」と思った時、口をついて出る言葉です。
1節 作者がうらやんでいる相手が、三つの動詞の否定で表現されます。日光東照宮の三猿(🙈🙊🙉)を思い出します。神ならざる悪しき者らの①助言に歩まず、②その道に立たず、③その席に座さずにいる人への憧れです。しかもこの三つの動詞は、習慣的な動作を表す完了形です(時制は過去ではない)。①神ならざる者らの助言に歩まない状態がずっと続いており、②それらの道には立たないことが日課となっており、③その席に座るような習慣などないその人に憧れています。
2節 作者がうらやんでいる相手の喜び(願望、関心、愛着)は、神ヤハウェの教え(諭し、指図)であって、ヤハウェの教えを、日中でも、夜でも「唱える、口ずさむ、思い巡らせる」人です。ちなみに「הגה(ハガー)」は、クマなどの猛獣が、獲物を前にして「グルル」と唸る声をも意味します(イザヤ書31:4参照)。作者が憧れる相手にとっては、神のことばが「垂涎の的」なのです。
3節 作者がうらやんでいる相手は、ここで樹木にたとえられます。しかもこの木は、自然に自生した木ではありません。意図をもって、水の流れのそばに植樹された木にたとえられています。水が貴重なパレスチナ地域で、水路のそばに植えられ、根をおろした木は、枝葉を青々と茂らせ成長します。また、時が来れば実を結びます。桃栗三年、柿八年、木々によって実を結ぶために必要な時間は違います。決して、即効性やタイパが高いとは言えませんが、その実は、種子として自分のいのちを残し、次の世代へとつなぎます。また、その実を他者に与えることで他者をも生かします。
反対に、水路のそばでもない場所にもかかわらず、いかにも繁っているかに思われる樹木だってあるのは、どう理解すれば良いのでしょう(37:35-36「私は見た、悪しき者が残忍で/青々とした野生の木のように生い茂るのを/36しかし、私が通り過ぎると/見よ、彼はいなかった。/探し求めても、見つからなかった」)。時が過ぎれば、その木は枯れます。きょうの詩の作者も、そのことをカサカサと乾燥し、中身はなく、自分も他者も生かせない抜け殻としての「もみ殻」と表現します。
作者がうらやむ相手に私も憧れます。また、その相手(木)が、自然に足を生やし、良好な水場を選んで自生したのでなく、植樹者なる神の意図により植えられ、そこに根を下ろすことがゆるされている点に救われます。同時に、まったく不思議ですが、そのように教会に植えられ、じっくり養われ、根をおろす姿を見た人が、「あぁ、うらやましい」と感じることがあるという事実には驚きつつ、植樹者の凄みを思います。

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