自由他在(じゆうたざい)

2024年4月21日 礼拝より
「自由他在(じゆうたざい)」 永松 博
コリント人への第一の手紙8章節

「あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけな
さい」(9 節)「…この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである」(11 節)。
自由とは何でしょうか。大和言葉的に「自らに由(よ)る」は、心のまま、思いの
まま、気まま、わがまま、というように自分につながるような概念とつながっていま
す。また日本語で自由を含む熟語で、自由奔放、自由勝手、自由自在、などからは、
自分中心の意味合いがあります。
一方、ルターは『キリスト者の自由』(1520 年)の中で、キリストが与えてくれた
自由は、相反するように思われる、自由と奉仕だと語りました(自由「キリスト者は
すべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない」、奉仕「キリス
ト者はすべての者に奉仕する僕であって、何人にも従属する」)。自由を単に「○○か
らの自由」と言って、何ものにもとらわれないと捉えるだけだと、ひたすら何かから
脱出し、逃げ続けるだけになりかねません。しかし、イエスが示された自由とは、解
放の先に、向かっていく方向性があったはずです。その方向性こそが、愛に向かって
いくということでした。
イエスが示された自由は、いわば自由「他在」と表現するのがもっとも近いのかも
しれません(竹下節子)。自由自在が、自分の自由意思を行使してなにものにもとら
われず、自分が中心として在るのに対し、自由他在の「他」は他者、隣人のことです。
キリスト者の自由は、他者への方向性を持っています。自分が何ものにもとらわれな
い自由の中にあって、その自由を人と共にあることに行使するのが自由他在です。神
による自由を生きられたイエスを見つめるとき、自分が自由になることが自分中心
になるのではなく、そのまま他者と共にいることにつながっていっていたことを思
うのです。真の自由は、決して自己完結しないし、自分中心でもないのでしょう。
きょうの箇所においてパウロが語る自由は、まさにイエスから学んだ自由他在と
言えるのではないでしょうか。直前で「すべてのことは、わたしに許されている。…
わたしは何ものにも支配されることはない」(7 章 12 節)と言っていたパウロは、
きょうの箇所では「もし、食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずか
せないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない」(8 章 13 節)と
も語っているからです。パウロの自由の中にも弱い兄弟を愛する方向性を持ってい
ました。キリストによってすべての支配から自由とされたわたしたちの自由も、弱く
小さくされている隣人を建てる、イエスによる自由他在でありますように。

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