見えないから見える

2024年2月11日の礼拝より
「見えないから見える」  永松 博
ヨハネによる福音書9章1~17、35~39節

 『そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」』(ヨハネによる福音書9章39節)見えていると思っている場所から見えている景色は、あまりにも見えていないということをイエスは語っておられるのではないでしょうか。
労働者の立場から聖書を読み直すカトリックの西野猛生神父は、見えない労働者たちから見えていることを告発しています。現場では、本来守られているよう見える人間の尊厳は、見えなくされ、損なわれていることを「無災害記録」から語っています。そもそも無災害記録とは、一定期間、労働災害を発生させることのなかった現場には、厚生労働省から「無災害記録証」が授与されるというもので、現場で働く方がたの安全のために考えられたものです。ですから無災害記録の実績のある会社は、外部から見れば安全でイメージがよく映るのです。しかし、無災害記録更新中のある鉄鋼メーカーの現場で事故が起こったとき、班長が飛ん来て、怪我をして激痛の中にいる人に必死にしたのは「どういう状況でけがをしたのか」と言う状況確認だったそうです。見かねた同僚が急いで救急車を呼んだそうです。他の会社でも、事故が起こり、当人が松葉杖をつくことになっても、包帯をしたままでも、会社側は無災害記録のために当人に出勤するように言うそうです。仕事ができずとも当人が出勤さえすれば「不休災害」となり、無災害記録が継続できるからです。守られるべき尊厳は、守られるはずのしくみの裏で、泣いているという本末転倒な状況があるというのです。
きょうの箇所の多くの登場人物たちは、生きづらさの中にある人の原因(1節)を見ようとし、きせきの方法を見ようとし(10節、15節、26節)、規則に照らして見ようとしています(16節)。しかし、イエスは「生れつきの盲人を見られた」(1節)のです。ただひとりイエスの眼差しは、踏みにじられているその人自身に注がれています。その人の視座から物事が見つめられています。すると、そこに神のみわざも見えてくるのです(3節)。正しさの側、多数派の側、見える側に立ち続けては、一人の尊厳を見失い、神のみわざも見えません。わたしたちは、イエスの眼差しに学ぶとき、これまで見えなかった痛みや歪みが見えはじめ、そこに現れる神のみわざをも見ることができます。この人の視力が回復した神のみわざも、追い出されてなお居場所があったことも、主イエスの眼差しと連帯に学ぶ時わたしたちの喜びとなるのです。

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