seer、見る者

2023年12月17日の礼拝より
 
「seer見る者」  永松 博
イザヤ書25章1~9節

「主よ、あなたはわが神、わたしはあなたをあがめ、み名をほめたたえる。あなたはさきに驚くべきみわざを行い、いにしえから定められた計画を真実をもって行われたから」(イザヤ書25章1節)
「わたしは主なる神が堅固な町を荒塚とされたのを見た」と告白しているのは、預言者(第二イザヤ)です。預言者「わたし」が置かれていた現実は、たいへん厳しいものでした。「わたし」は、分厚い壁に取り囲まれ、身動きもできない状態であるにもかかわらず、「力による人の支配という壁は壊される、いや壊された」と告白して生きる人でした。
預言者とは見る者とも言われます。英語ではseerです。預言者は、普通のまなざしでは見ることのできないものを見ていくことができる者のことであり、目の前に転がっている現実という材料に、神のみわざによる意味を与え、告げる働きを担う者です。
ふつうの人間のまなざしは、自分を抑えつけ、とりかこむ現実の「とりで」に絶望するでしょう。しかし預言者「わたし」のまなざしにかかれば、「あなたは貧しい者のとりで…、乏しい者の悩みのときのとりで…、あらしをさける避け所…、熱さをさける陰…」(4節)と神の存在を見出し、証します。
ふつうの人間のまなざしは、目の前の代わり映えしない貧相な「食卓」に心くじけます。しかし預言者「わたし」のまなざしにかかれば、万軍の主の「祝宴」を見るのです。(6節「万軍の主はこの山で、すべての民のために肥えたものをもって祝宴を設け、久しくたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。すなわち髄の多い肥えたものと、よく澄んだ長くたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる」)を見るのです。同じく、涙とはずかしめから、慰めと栄光を見るのです(8節)。
わたしたちも預言者「わたし」として生きることができます。神を礼拝することを通して、みことばを通して物事を見つめ直していく時、一つひとつ神の国のわざを見つけて喜び、「わたし」個人の喜びが「われわれ」「わたしたち」の喜びとなっていく「その日」(9節)を生き始めることができます。主イエスがこの世界に来られた時からもう「その日」が始まっているからです。

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