ガリラヤに熱あれ、光あれ

2023年12月10日の礼拝より
「ガリラヤに熱あれ、光あれ」  永松 博
イザヤ書9章1~7節(口語訳)

「しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。」(イザヤ書9章1~2節)
この預言を南ユダのヒゼキヤ王の即位(前728年)の時、あるいはバビロン捕囚期に語られたものと受け止めて読むことができます。預言の中で挙げられている北イスラエルのいくつかの地域は、どれもシリア・エフライム戦争の際、アッシリアによって攻め落とされた地域です。イザヤは預言の中で、アッシリアに撃たれた地域は回復されると語りました。しかし歴史的には、前722年、挙げられている地域の回復はおろか、北イスラエルはアッシリアによって滅ぼされてしまいました。この預言は無意味なものだったのでしょうか。
後1世紀まで遥かに長い時間を飛び越えて、聖書を読み進めていきますと、「ひとりのみどりご」イエスによってこの預言は成就した、とマタイによる福音書4章15~17節が伝えていることを知ることができます(『15これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、16暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」』)。 
マタイ福音書は、イエスの福音宣教の開始が、他のどこでもなく「異邦人のガリラヤ」から始められたことに大きな意味を見出し、イザヤの預言の成就をみたのです。新約時代、「異邦人のガリラヤ」は蔑称となっていました。南のユダヤ人からすればガリラヤは異邦・異教の人びとと交わり、律法や「正当」な宗教伝道から離れた「汚れた者」とみなして境界線を引いて分断し、政治・経済・宗教的に差別の対象としていたことは新約聖書の各所からも読み取れます。そのようなガリラヤにおいてイエスはいのちの尊厳と人権の回復のために福音を語り、生き始めたことが預言の成就であり、「光」だったのです。翻って、現代におけるガリラヤとはいったいどこなのでしょうか。現代における「ガリラヤ」の上に光が照ることを祈り、わたしたちもそこで福音を生きていきましょう。

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