光とかげのかんけい

2023年12月24日の礼拝より

「光とかげのかんけい」  永松 博
ヨハネによる福音書3章16~21節

ヨハネによる福音書という文書は、意味が正反対の言葉が並ぶ文書です。例えばきょうの箇所では「信じる者」(16節)と「信じない者」(18節)、「さばき」と「救い」(17節)、「光」と「やみ」(19節)等です。故に、この箇所の内容は次のようなあれかこれかの印象を受けるかもしれません。「神の子としてこの世にこられた光、イエスを信じる者は永遠の命を得る」。反対に、「光として来られたイエスを信じない者は、やみを愛する者であり、さばかれる」と。
しかしヨハネによる福音書は、むしろあれかこれかの二元論を越えていこうとしている文書でもあることを覚えます。
実際「さばき」(17節)という言葉は、原語では「区別する」とか「選り分ける」という意味の言葉です。よって17節の一文は「神が御子を世につかわされたのは、世を区別したり、選り分けるためではなく、御子によって、この世が救われるためである」という意味となります。ヨハネ福音書は、さばきをつくりだすのは神ではなく、わたしたち人間自身のあり方がさばきの闇をつくり出していると語っているようです。そのことは、太陽とかげの関係に似ているとも言われます(『太陽が日の光を注ぐのは、本来、影をつくるためではない。だが、それが光を通さない不透明なものに当たると、いや応なく、影が生まれる。影は、日の光から必然的に生じる副次的な一面と言えよう。「神の独り子が与えられた」ということと「裁きが存する」ということも、これと似ている。神が御子を世に遣わされたのは、御子によって世が救われるためである。しかし、光が射すとき、そこにはいや応なく、影が生まれる』)。影は太陽の光がさえぎられたところにできるものでした。影すらも、太陽との関係にあったことに目を開かれます。
ひとり子イエス・キリストを賜った神は、わたしたちすべての者のために光としてこの世界に来られました。透明な者のところにではなく、光を通さない不透明な者のところに来てくださいました。救われる人と滅びる人を区別して、選り分けるためではなく、「御子によって、この世が救われるため」(17節)に来てくださいました。わたしたちは、この神の真実に信頼して、イエス・キリストという光の方へと、何度でもまなざしを向け直し、心を開いて生きていきましょう。

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