2024年10月20日
「『ダメ。ゼッタイ。』を越えて」 永松 博
エレミヤ書10章17~24節(聖書協会共同訳)
「主よ、私をこらしめてください。/しかし、あなたの怒りによらず/ただ、公正
によって。/さもなければ、私は無に帰してしまうでしょう。」
わたしにとってこの言葉は、薬物依存症者の社会復帰に尽力された近藤恒夫さん
の「刑務所に入れてください」との訴えと重なって響きました。近藤さんは、薬物依
存症者が共同生活を通じて回復を目指す国内初の民間施設「ダルク」の創設者で、ご
自身も薬物依存症者でした。30 歳の時、誘われるまま覚せい剤に手を染め、やがて
逮捕されました。裁判の最終陳述の際、裁判官から最後に言いたいことはないかと訊
かれ、「執行猶予はいりません。刑務所に入れてください」と泣きながら訴えたと言
います。この訴えは、どんなに薬物をやめようとしても、自分の意志や力ではどうし
ようもなかったからこその叫びでした。保護観察付き執行猶予となって出所した近
藤さんが立ち直ったきっかけは、アルコール依存者の支援活動をしていたロイ・アッ
センハイマー神父の存在でした。ロイ神父は近藤さんをAAのミーティングに誘い、
毎日迎えに来たそうです。一日に三度、8 年間毎日ミーティングに出席し続けた結果、
執行猶予中クリーンで過ごすことができたと言います。近藤さんは、この回復体験か
ら、「『ダメ。ゼッタイ。』ではだめ。罰だけではクスリは止められない。…安心して
本音を話せる居場所が必要だ」、「依存者の敵は薬物ではなく孤独だ」と訴えて、当事
者同士が支え合う仕組みを築いていかれました。依存症という病気の回復のために
大切なことは、依存症という自分の病気を認め、他人の病気も受け入れること。そし
て苦しい時も、楽しい時も仲間と一緒にいることを続けることでしょう。
神のさばきを語り続けたエレミヤは、「19 ああ、災いだ」、「21 群れはことごとく
散らされる」と神のさばきを語っています。しかし、同時にエレミヤは自ら痛み、傷
を負い「19…これこそ私の病。私はそれを負わなければならない」とも語りました。
これは、「神も預言者も関係ない」と言い放つ民に苦しんだ経験をしていたからこそ、
自らの根底にも通ずる「こっちこそ関係ない」と関係を絶ってしまいそうになる病
(聖書では罪)に気づかされていたからこその言葉なのではないでしょうか。「主よ、
私をこらしめてください」との告白も、自らの努力では回復不能だとわかっていて、
当時ただひとり、痛みながらも語りかけることをやめようとしない神に回復の望み
を託した本音だったのではないのでしょうか。わたしたちも、それぞれ関係し合って
生きているにもかかわらず「関係ない」と言い放ち、関係を絶とうとする病を越えて
関係性を取り戻して生きていくために、病を認め、受け入れ合い、苦しい時も楽しい
時も、主に在る交わりである教会に集い、本音で語り合い生きてみませんか。