2024年11月24日
「公正と正義」 永松 博
エレミヤ書33章1~3,10~16節(聖書協会共同訳)
正義の名のもとに戦争が繰り広げられているいま、「公正と正義」とは何かが問われます。
一般的な公正と正義とは何でしょう。例えば、働きに見合った相応の報酬が支払われることは公正です。また、すべての人に平等な権利が保障される社会秩序が公正。あるいは裁判や競技の場であれば、法やルールに則った偏りのない審判こそが公正と言えます。一般的には、このような公正に反するものは”悪”であって、”悪”に対抗する力のことを”正義”と呼びます。
一方、聖書の言う公正(ミシュパート)と正義(ツェダカー)とは何でしょう。例えば、同じエレミヤ書22:3によれば、「公正と正義」に基づく具体的な行動は、貧しい人や、立場の弱い人に与え、守ることだと言われています(「22:3主はこう言われる。公正と正義を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救いなさい。寄留者、孤児、寡婦を抑圧したり虐待したりしてはならない。また無実の人の血をこの場所で流してはならない」)。正しい人は、利他的で与える人のことであり、反対に悪い人は、利己的で貪欲な人のことであるようです。
きょうの箇所では33章15節に、公正と正義の言葉がでてきていました(「33:15その日、その時、私はダビデのために正義の若枝を出させる。彼は公正と正義をこの地に行う」)。この言葉は、争いの末に剣によって廃墟と化した町に向かって、エレミヤが語った言葉です。本来なら、廃墟となったのは「33:5あらゆる悪のゆえ」の当然の結果と考えて「見よ、”正義”はなされた」と言ってもなんらおかしくはない場面です。自らの預言の正しさを示し、廃墟をその正しさの証明としてもおかしくはない場面にもかかわらず、エレミヤは神の公正と正義を語ったのでした(「12人も獣もいない荒れ果てたこの場所が、そのすべての町が、再び羊の群れを伏させる羊飼いの牧場となる」)。わたしたちの思うそれを遥かに超えて神によって語らされたのでしょう。
故・谷川俊太郎さんは言いました。『反対意見を言われて「私が間違っているのかもしれない」と思うのは、「私は正しい」と思うより健康で建設的です。そこから始める方が相手とうまくいくと思う』と。まことに正しい神は、ご自身の正しさを証明することよりも、正義の若枝なるイエスによって、人をあわれみ、救うことによってご自身の公正と正義を示された神です。正義の若枝なる神のひとり子、主イエスの誕生がクリスマスです。廃墟の中に芽生えし、まぶねの中の幼子を見つめ、そこにあらわされている神の公正と正義に、ひれ伏し、自らの正義を問い続けたいと願います。
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