2023年9月17日の礼拝より
「呪いではなく祝福を」 永松 博
創世記9章18~28節
人生において、だれかを、あるいは何らかの出来事を呪ったご経験がおありかもしれません。裏切り、不義理、決してあってはならない事態や出来事を前に、呪いたくなるものでしょう。かつて創世記の洪水物語において神も、人間の悪のゆえにこの世界を呪いました。しかしご自身の心を変えられた神は、人の悪があってもなお「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない」(創世記8章21節)と永遠に決意されました。さらに神はすべての命を「産めよ、増えよ」(創世記9章7節)と祝福なさいました。このように聖書の神は、人がどうあろうともご自身の故に、呪いでなく祝福を返そうとなさるお方だと聖書は語ります。もしそうならわたしたちは、神の忍耐によって欠けを覆われ生かされ、一方的な祝福を受け続けている存在だと理解できます。
さて、呪いと祝福というテーマは、きょうの聖書箇所にもあります。創世記9章後半では、神でなくノアが一部の息子たちを祝福し、他方を呪っています。発端は、ノアの失態でした。一部では正しく忠実に描かれたノアも不完全な人間でした。ノアは天幕の中で酒に酔って裸になっていました(21節)。天幕は遊牧民には家でもありましたが、定住する農夫にとっては聖所でした。つまりノアは、歴史的に当時の聖書の民が対立・批判していたカナン宗教の忌むべき習慣(集団での性の無秩序と酒による集団的酩酊)に加わったとも読めるでしょう。そしてノアの三人息子のうちの一人は父に対して何らかのあってはならない不義理、裏切りを行いました。その中身は、本文では明言されていませんが、息子による「家庭内の性的秩序の混乱」(『新共同訳聖書注解Ⅰ』)だったかもしれません。こうしてノアは息子を呪うに至りました(24~27節)。 農夫(土の人…アーダーマー)としてのノアには、洪水後の第二のアダムとして、呪いを祝福に変えて生きることができるとの神の期待がありましたが、結果は人間が人間を呪うという悲劇が起こりました。
わたしたちは、ノアのように裏切られ、呪わずにはいられない出来事を前にした時、神のことを思い出したいのです。裏切られたとき、神も同じような思いを味わっておられたであろうことをほんとうの意味で知ることができます。さらに、受け入れ難き欠けを覆い受け入れて、呪いを祝福として返すことを選ばれた神の凄味に震えるでしょう。この神は、キリストによって欠けを覆い、諦めでもなく、人がまことに呪いを祝福として返して生きることができると信じて忍耐し、憐み、期待しておられます。わたしたちは、この神を見上げて、キリストにあって、ゆるし難きをゆるし、愛し難きを愛し、呪いを祝福で返すことを学んで、神の国を生きることができます。なぜなら、わたしたちは、神の忍耐によって欠けを覆われ生かされて、呪いではなく祝福を受けている存在だからです。