2026年7月12日(日)
「耳鳴りはかみなり」 永松 博
サムエル記上3章1~18節(聖書協会共同訳)
7月1日、所沢市に私設図書館がオープンしたと新聞で知りました。LGBTQ+や、ジェンダーに関する資料や専門書が約2万点集められた全国的にも珍しい完全予約制の有料私設図書館で、設立のきっかけの一つは、AIの普及だといいます。AIの情報源はネット上です。ということは、ネット上にない情報は無かったことにされてしまいます。だから館長はネット上にはなくとも確かにある歴史やひとりの存在を紙の資料で伝えようとしています。元々この世界には、黙らされ、いないものにされてきた多くの声があります。いまも、聞かれていないだけで、存在しているのです。いま、存在しない者にされようとしている時代の中で、私たち(教会、キリスト者)は、そのひとりの存在が安心して語ることができるような場を創出し、醸成していくことが求められています。
今日の箇所で少年サムエルも、祭司エリに対して語ることを「15恐れ」ています。安易に「サムエルは臆病」「恐れず語らねば」とは言えません。サムエルは、3歳の頃からエリのもとに預けられていたといいます。つまりサムエルの生活と今後の人生は、ほとんどすべてエリの決定と評価とにかかっていました。その中でエリにその罪を指摘することは、命に関わることであり、恐ろしかったのも当然です。
しかし、物語の結論は18節にある通り、サムエルは語り、聴くべき人(エリ)に聴かれました(『18サムエルは一部始終をエリに話し、隠し立てをしなかった)。そして、サムエルが語った後の状況は、19〜20節にある通り、守られました。すなわちサムエルは、師であるエリの罪を指摘した後も、エリの元で変わらずに生活することができ、正当な評価を受けていったことを読み取ることができます。
語ることを恐れたサムエルが、あの時、黙らされたままではなく、語ることができたのは、一体なぜでしょうか。神がサムエルと共におられた(18)というのももちろんです。ただ、8〜9節、17〜18節から思わされることは、神が聴くべきエリに対しても不思議とかかわられたことです。すなわちエリは、神がサムエルを呼んでいることを悟り、サムエルになすべきことを教えました。またエリは、サムエルに神の言葉を隠してはならぬと教え、すべてを話すよう命じました。実際、この時、エリ自身は、自分の過ちが指摘されることをどの程度予想し、覚悟していたかは不明です(意図していなかったかもしれまません)。それでも、これらのエリの教えと姿勢とは、奇しくもサムエルにとっては「語っても大丈夫だ」と思わせる心理的安全性の保障となっていたであろう、神の不思議を思うのです。
「神の言葉が一つたりとも地に落ちることがない」とは、語られるべきひとりの言葉が黙らされることなく語られ、また聴かれるという意味を含むはずでしょう。
