2024年3月17日の礼拝より
「ただ一つこれだけは信頼できる」 永松 博
ヨハネによる福音書18章28~38節前半
「真理とは何か」(18 章 38 節前半)との問いが響きます。わたしたちはふつう、
この問いに「真理とは事実」だと答えるのではないでしょうか。1+1 が 2 であると
いう事実を。空にかかる虹は、太陽の光が分かれてできた気象現象であるという事実
を真理と考えます。わたしたちは、客観的に把握可能で、いつでもどこでも通用する
普遍的な事実を真(まこと)の理(ことわり)と考えます。この場合わたしたちは、事実
を眺め、観察する側で居続けることができます。真理を知ってなお、自分の生き方は
今までと何も変わらないままで、真理の前を通り過ぎ、日常に戻ることができます。
しかし聖書が言う真理とは、信頼と関係です。わたしたちが真理に出会うとき、も
はや客観的に眺め、観察する側として居続けることはできません。真理に出会うとき、
その前を通り過ぎて今までと変わらないままでいることはできません。出会いによ
って、そこには新しい信頼関係が生まれ、それまでとはちがう新しい人としての生き
方が始まってしまうことを聖書は真理というのです。
イエスは言います「わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのた
めにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」
(18 章 37 節)。イエスがあかしする(冠詞つきの)真理は、ただ一つこれだけは信
頼できるという神の真実のことです。どんな時代でも、どんな状況にあっても、神の
真実(誠実、忠実)だけはブレることなくどっしりとしていて、頼りになり、拠りど
ころとなり、変わることなく、揺るがないとイエスはあかししています。この神の真
実をヘブライ語では、名詞でエメトと言い、副詞ではアーメンと言います。真理の神
に出会うとき、人に変化が生じ、真理の神との関係性の中に入れられ、わたしたちの
中に真理への信頼が生まれ、新しい生き方がはじまってしまうのです。
まったく皮肉なのは、どんなときでも信頼できる神の真実を知っていて、常にそれ
をあかしするはずの者たちが、特定の人と場所ではあかしを避けていることです
(「けがれを受けないで過越の食事ができるように、官邸にはいらなかった」28節)。
しかし、イエスは人びとが避けたその人、その場所においても、変わるはずのない神
の真実をあかししています。「真理とは何か」というピラトの問い自体がズレていた
のかもしれません。「真理とは誰か」、イエスこそが、真理の神を知りあかしする真理
そのものです。イエスが語る「わたしは道であり、真理であり、命である」(14 章 6
節)との言葉にアーメンと告白して、どこでもだれとでも生きていくことができます。