2026年7月26日(日)
「失敗体験の折に」 永松 博
サムエル記上16章1~13節(聖書協会共同訳)
デュラ村のコンボさんをご存知かもしれません。カメルーン西部の平均月収3000円の農村で養鶏場を営む傍ら、2023年から英語と日本語でも、村の生活を発信するYoutuberで、二年前に新聞でも取り上げられました。中でも「生きることがしんどい日本人へ」という動画の再生数は当時160万回を越え、注目されました。彼は日本社会で悩める人たちの共通点として、失敗を「悪」と決める社会の中で「失敗したくない、失敗したら終わり」と萎縮しているからではないかと考え、励ましや労いの言葉なども発信しています。
この社会で生きている私たちは、失敗をどのように捉えてきたでしょうか。子供は、失敗を通して改善点を知り、考える力を養い、立ち直る術を学び成長します。よって大事なのは、失敗をしないことではなく、「失敗から学ぶ」ことを知っていることです。ゆえに教育者に求められるのは、良し悪しの評価ではなく、どんな結果でも結果に至るまでの努力を認め、失敗は必ずやり直せることを伝え、「失敗した」という気持ちだけにとらわれてしまわないよう働きかけ、失敗した理由を考えることができるよう伴走し、もう一度やってみるよう励ますことです。
今日の箇所の前提には、古代イスラエル初代の王サウルの「失敗」があります。サウルは、数々の武功をあげ、預言もしました。しかし、13章のペリシテとの戦では、王サウルの失敗が指摘されていました(「13:13あなたは愚かなことをした。あなたの神、主が命じられた戒めを守らなかった」)。また、15章のアマレクとの戦でも、王サウルの失敗が指摘され、その失敗は「悪」と評価されていました(「15:19なぜ、あなたは主の声に聞き従わず、戦利品に群がり主の目に悪とされることを行ったのか」)。さらにサウルは、この失敗ゆえに王位から退けられると宣告され(15:23,26)、他に新しい王が立てられると宣告されていました(13:14)。ここでの神は、失敗は悪とみなし、失敗者はすぐに見捨て代わりを立てるような神なのでしょうか。否、イエス・キリストを通してご自身をあらわした神は、今日の箇所で誰よりも先に行動しています。悲しむサムエルに声をかけ、油を注ぐ備えをするよう指示します。この時すでに油を注ぐべき人を探し出してもいました(16:1)。こうして油注がれたダビデが行ったことは、失敗した王サウルに仕え、たて琴を用いてその霊を休ませることでした(21−23節)。もしも神が、失敗者を見捨てず、成長を願い真っ先に行動しているとすれば、私たちは悲しんでばかりはいられません。「16:1角に油を満たし」、主が選ばれた人へ油を注ぐ務めが託されているのです。
