2023年10月15日の礼拝より
「エ~ンと泣く涙から」 永松 博
イザヤ書5章7~9節
お互いの正義と正当性によって、悲惨な武力衝突に発展したイスラエルとガザ地
区のニュースに心を痛めながら、”正しさ”について考えさせられています。
狭山市民でもあり、埼玉県内の小中高校の校歌も数多く作詞した詩人、吉野弘さん
の代表作「祝婚歌」には”正しさ”について次のようにあります。「正しいことを言
うときは/少しひかえめにするほうがいい/正しいことを言うときは/相手を傷つ
けやすいものだと/気付いているほうがいい」。
一方、預言者として常に自らの置かれた時代の問題に取り組み、鋭い言葉で神の正
義を語ったイザヤの言葉には、少しのひかえめさも感じられないように思います。イ
ザヤには、特殊な使命として、民の心を鈍くさせるために預言する務め(頑迷預言、
イザヤ書 6 章 10 節)が与えられていたからではないでしょうか。
きょうの箇所でのイザヤも少しのひかえめさも感じられません。エルサレムの一部
の中心人物たちが貧しい者から土地を取り上げて富み、神殿で献金することで尊敬
を集めるような格差社会の構造的な問題を前にしていたイザヤは「8 わざわいなる
かな、彼らは」と真っ向から露わにしています。註解書も、審判、批判、告発、罪、
有罪…などの文字が目につく刺さる箇所です。しかし、「わざわいなるかな」や「呪
われよ」とも訳される原語「ホーイ」は、もともとは泣き声を表すと知りました。聖
書の神が、人間の至らなさを知り「エ~ン」と泣く神だというと言いすぎでしょうか。
イエス・キリストの十字架を通してご自身をあらわされた神は、ご自身の真っ白な正
義が人間を頑なにすることがあり、時に傷つけ追い詰めることをもよくご存じでい
てくださる優しい神です。この神は、的外れなわたしたちの小さな正義(場合によっ
てそれが悪であり罪)を怒りでねじ伏せるのではなく、涙を流し、それでもなお、わ
たしたちが向きを変え、公平と正義に生きることを望み(7 節)、その選択のためにイ
エス・キリストの十字架という何ともひかえめな方法を通して、正しすぎない正しさ
を示し、導くことを選んでくださった優しいお方です。わたしたちはその神理解に立
ち、イザヤの鋭い言葉を自らに照らし、向きを変えて新たないのちを生きましょう。
わたしたちが正義を語るときには、主イエスの十字架を思い、愛からくる言葉をも携
えて生きていきましょう(「たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥
義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、
もし愛がなければ、わたしは無に等しい」コリント人への第一の手紙 13 章 2 節)。