2023年11月26日の礼拝より
「見よ、わがしもべは目覚めさせる」 永松 博
イザヤ書53章1~8節
先週、山田火砂子監督(91歳)が、10作目記念作品として新たに映画製作に取り組んでいると知りました。来年2月頃に完成予定のこの映画「わたしのかあさん」のテーマは、社会福祉であり、知的障がいのある母と子の物語です。秀才だった子は、小学四年生頃、母の障がいに気づき荒れ狂います。しかし次第に「障がいがあるのは自分だったかもしれない」と気がついて、人間性を取り戻し、障がい者施設の園長として生きていくという物語です。わたしはこの子の生の転換に深く共感を覚えます。わたし自身も、家族をはじめ、被抑圧者やマイノリティの方がたの視座を借りて聖書を読み直す中で、目から鱗が落ちて、それまで見えていた世界とはまったくちがった世界を見させていただいた経験を、たいせつに思っているからです。
同様に、イザヤ書53章の「苦難のしもべの詩」の「われわれ」も、苦難のしもべとしての「彼」を通して、目が開かれ、前代未聞の認識に至ったことを語っています。はじめ「われわれ」にとって「彼」は、「見るべき姿がなく、威厳もなく…慕うべき美しさもない」(2節)人だと見えていました。「彼」は、輝きなし、威厳なし、美貌なく、苦しみ、病み、軽蔑されている、自業自得だと見えていました(「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった」3節)。しかし「彼」の死後(8節)、「われわれ」は、それまで見えていたのとはまったくちがった世界を見たのです。「彼」が担っていた苦難悲哀は、「われわれ」のものであり、「われわれ」のためだったとの認識でした(「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。…彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」4~5節)。
現代に生きるわれわれは、救い主イエスをどうのような姿としてイメージしているでしょうか。もしかすると主イエスは、「路上で汗を流す神、日焼けした神、私たちと同じ外見を持ち、私たちと同じように感じる、労働者キリスト」(苦しみ戦う民衆の経験から生み出された賛美「ニカラグア農民のミサ」)であるのかもしれません。その視座を借りて物事を見つめ直すならば、これまで見えていた世界はまったく違って見えてきます。キリスト者として教会を形成するわれわれは、十字架の主イエスによって目覚めさせられ、新たに連帯して生きることへと招かれている者です。