問い

2026年9月13日(日)
「なぜとの問いにこたえて」  永松 博
サムエル記下16章5~14節(聖書協会共同訳)

「なぜ(何故)」との疑問詞は「理由や原因などを問うのに用い」ます。物事を考える上で、「なぜ」と理由や原因を問うことは欠かせません。
今日の箇所では、神も預言者ナタンを通して、ダビデに「なぜ」と問います(「9なぜ、主の言葉を侮り、私の意に背くことをしたのか。あなたはあのヘト人ウリヤを剣にかけ、彼の妻を奪って自分の妻とし、アンモン人の剣で彼を殺した」)。神は、なぜダビデが “バト・シェバ事件”を起こしたのか、その理由や原因について考えさせようとしています。しかし、ダビデは「13私は主に罪を犯しました」とこたえています。これは、神の理由や原因についての問いのこたえにはなっていません。
素直に罪を認め、悔い改めるダビデの姿勢を理想的モデルと評価する解釈も少なくありません。しかし、悔い改めたのはダビデだけでなく、前王サウルも悔い改め、罪の赦しを求めました(サムエル記上15:24,30)が、認められませんでした。このことは、旧約聖書にカインとアベル以来の謎とも言われています。
ですから、私は悔い改めというよりは、13節に注目します。ダビデ自身、自らの過ちを死罪と宣告しました(「5そのようなことをした男は死ななければならない」)。しかし、神はそのダビデに対して、理由はともかく「13あなたは死なない」と言い、ダビデは赦されました。ここで注意すべきは、赦された者としてどう生きるかであるように思われます。謝れば赦されるというだけではなく、赦された者として神の「9なぜ」との問いを受け、問い続けながら生きることではないのでしょうか。
一昨日、さいたま市見沼区染谷の常泉寺へ行きました。関東大震災の混乱の中、旧片柳村で自警団によって命を奪われた朝鮮人、姜大興さんの20回目の追悼集会に参加しました。そこで話された関原正裕さんも「なぜ」と問い考える方でした。関原さんは「流言蜚語を信じたとはいえ、普通の市民がなぜすぐに人を殺せたのか」と問い、歴史を振り返り、背後にシベリア戦争があったと指摘されました。当時、埼玉からも多くの兵隊がシベリア戦争へ参加し、その戦争経験者らが地域に戻り、関東大震災下では自警団で中心的役割を果たしたことが殺人に繋がったと洞察されました。 
この洞察は、今日の箇所の背景とも見事に重なります。“バト・シェバ事件”の背景にも、力で人の命や尊厳を奪い、搾取し、欲望を満たす戦争思考があったことを忘れてはなりません。神は、値なく赦された者が、神の「なぜ」との問いを続け、過ちを繰り返さぬよう深く学び、新たに生きることを望んでいるのではないでしょうか。

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