しかし主なる神は

2023年11月19日の礼拝より
 
「しかし主なる神は」  永松 博
イザヤ書50章4~11節

第二イザヤは、出バビロンという重い「十字架」を担った預言者でした。第二イザヤにとっての出バビロンは、まるで出口の見えない長いトンネルの中を進むかのようでした(「あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか」50章10節)。なぜなら、仲間たちからの反対と辱めにあったからです(6節)。仲間たちの多くは、バビロンでの50年にも及ぶ捕虜生活で、希望と熱を失ってしまっていました(「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」49章14節、「暴君がかすめた捕虜をどうして救い出すことができようか」49章24節)。故に、過去を見つめ、神を信じて荒野を旅し、荒れ果てた祖国を再興しようと、苦労へと導こうとする第二イザヤを受け入れることができなかったのでしょう。
しかし、第二イザヤは「疲れた者を言葉をもって助ける」(50章4節)者として神によって朝毎に立たされていきました。第二イザヤは、反対の中で、神の言葉によって捕囚で苦しみ解放を願う数少ない者たちの側に立たされ、信じる側、悔い改め続ける側に立たされていったのです。確かに出口の見えないような道でした。「しかし、主なる神はわたしを助けられる」(50章6節)と第二イザヤは告白しています。
わたしたちにとって、信じ、悔い改めて生きるとは、過去の歴史を学んで生きることでしょう。自らの原点を、それも決して栄光ではない、栄光とはかけ離れた原点を見つめるという厳しく辛いことでしょう。しかし、十字架を背負わずして進むべき方向を見つけることはできません。
ある神学者は「信じること、悔い改めることは、己の苦しみではなく、この世での神の苦しみを真剣に受け止めること」であると言います。そして「この世界での神の苦しみに参与することが悔い改めであり、このことが真の意味でキリスト者をつくる」と。悔い改めを告白する者たちが集められる教会とは、「たえずみ言葉に聴き、み言葉によって改革される共同体」です。十字架を掲げる教会は、主イエスによって罪を認めて、向きを変え続ける所です。暗闇の中、自らを絶対化・正当化して自分で光をつくり出し「火を燃やし、たいまつをともす」(50章12節)のでなく、十字架のキリストに信頼し、苦しむ者に連帯し、苦難と暗闇と思えるような荒野へと一歩踏み出しましょう。主なる神はわたしたちを助けられる。朝毎に全ては備えられます。

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